2010年11月8日月曜日

G.G.佐藤のエラー踊り

G.G.佐藤(ジー・ジー・さとう、本名:佐藤 隆彦(さとう たかひこ)、1978年8月9日 - )は、千葉県市川市出身のプロ野球選手(外野手)。埼玉西武ライオンズ所属。
目次 [非表示]
1 来歴・人物
1.1 アマ・マイナー時代
1.2 ライオンズ時代
2 使用用具
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 年度別守備成績
3.3 背番号
3.4 個人記録
4 エピソード
5 テーマソング
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
来歴・人物 [編集]

登録名の「G.G.」の由来は、中学生時代に、同級生(後述する出身少年野球チームのオーナー野村沙知代および団野村母子という説もある)から「猫背で顔がジジくさい」といわれていたためである(爺→G.G.)。ヒーローインタビューでは「キモティ―――ッ!」と絶叫するパフォーマンスを行う。
ウェイトトレーニングが趣味で、試合後や練習後にもジムに通い体をビルドアップすることについては余念が無く、その筋骨隆々とした体格を生かした長打力と強肩が最大の持ち味。ベンチプレスは180kgを記録する。それらのトレーニングが長打力の源泉となっている。守備では主に右翼を守る。
アマ・マイナー時代 [編集]
小学校時代は千葉県市川市行徳のリトルリーグに在籍。このときのチームメイトにはヤクルトの相川亮二がいた。中学時代は野村沙知代がオーナーを務めていた「港東ムース」に在籍。桐蔭学園高校から法政大学に進学。大学時代はレギュラーすら掴めず、本塁打も通算で1本のみ。大学卒業後、アメリカマイナーリーグのフィラデルフィア・フィリーズ1Aに入団。もともと法大では内野手だったが、フィリーズ1Aで強肩を見込まれ捕手にコンバートされた。
入団テストで伊東勤監督に見出され、2003年のドラフト7巡目指名で西武ライオンズに入団。マイナーリーグを経由して日本のプロ野球に入った異色の経歴を持つ逆輸入選手である。
ライオンズ時代 [編集]
1年目の2004年から45試合に出場し、打率.298の数字を残した。プロ初本塁打を含む3本塁打も記録。一塁手かDHで起用され、捕手としての出場はファームでも一軍でもなかった。8月25日には長打力を買われ3番・DHでスタメン出場した。
2005年は捕手が多いというチーム事情から打撃に専念するため、この年から内野手(主に一塁手)となり、さらに同年後半から外野手に再転向。8月20日に右翼手で先発出場したのがプロ初の外野守備である。二軍では打率.372、本塁打13本と打撃をアピールしたが、一軍では打率.214と振るわずに前年より出場機会を減らす結果となった。
2006年は外野手登録でスタートし、プロ入り3年目で捕手、内野手、外野手の3通りで登録されたことになる。伊東監督から「キャンプで最も成長した選手」として名前を挙げられるなど実力をつけ、初の開幕スタメンの座を勝ち取り、一時は4割を越え首位打者を争う活躍を見せた。
しかしその後は突然不調に陥り、打率がみるみる急降下してあっという間に2割5分付近まで下がってしまった。また広島から移籍した福地寿樹のスタメン定着などもあり、6月には出場選手登録抹消。外野手登録されたことで守備時の動きを軽くしようとし、趣味のウエイトトレーニングを控え体重を減らしたことが後半のスタミナ不足につながった。
二軍では打率.310でチームトップの11本塁打を放つなど格の違いを見せつけ、9月19日に再登録された。しかし再び活躍することはできず、10月3日に再度抹消されそのままシーズンを終えた。2006年のお立ち台での新ネタとしてパッション屋良を真似たパフォーマンスを用意していたが、日の目を見ることなく終わった。
2007年はオープン戦で前年と同じように打ちまくり、5本の本塁打を放つなど好調ぶりをアピールして、見事に7番・ライトで2年連続の開幕スタメンを果たした。その起用に応え開幕戦・開幕2戦目と2試合連続本塁打を放った。また、4月28日の対ロッテ戦でヒーローインタビューを受けた際、2007年シーズンにおける自身のキャッチフレーズを、ファンを愛し、ファンに愛される選手になりたい思いから「愛の波動砲G.G.佐藤」と宣言した。
7月のアレックス・カブレラの故障離脱に伴い、空位になった4番候補に江藤智・和田一浩とともに名前が挙げられ、調子を上げていたG.G.佐藤が抜擢されて7月11日から4番を任されるようになった。
前半戦は6番か7番での起用が多かったが、カブレラ、和田らが不振の時にはクリーンナップを任された。3番で20試合、4番で19試合、5番で16試合にスタメン出場した。
後半少し調子を落としたが右翼手のレギュラーは譲らず、初めて一度も二軍落ちすることなく一年を通して活躍し、初の規定打席到達。3年間で9本しか打てなかった本塁打をリーグ5位の25本と量産し、長打率はリーグ4位の.510と5割を越えるなど、中軸打者として活躍した。
年間通じてひとつの失策も犯さず、守備率10割を達成した。規定打席到達者で年間無失策だったのは、両リーグ通じて大村直之とG.G.佐藤の2人だけである。また、補殺数で外野手リーグ4位を記録するなど、肩の強さも見せた。
2008年は年俸交渉が難航し春季キャンプに不参加となるが、5月の月間成績で打撃3部門すべてリーグトップに立ち(打率.389、9本塁打、23打点)、初の月間MVPを受賞。FA移籍した和田の穴を完璧に埋める。4月10日から16日までプロ野球タイ記録(10人目)となる6試合連続二塁打をマークした(翌年に金子誠が更新)。5月22日・23日には3打席連続本塁打を記録。7月7日発表のオールスターファン投票結果では、セ・パ通じての最高得票数(367,837票)を獲得して初選出、また同年から始まった選手間投票でも476票を集め、全選手通じてのトップだった。
交流戦に入っても好調さは変らず、北京オリンピック野球日本代表の外野手として追加招集され、その後メンバーに選出される[1]。しかし力を発揮できず、特に守備においてはレフトの守備に起用されるも、準決勝の対韓国戦では3失点に絡む2失策を、またアメリカとの3位決定戦でも3失点に絡む落球の失策をそれぞれ犯すなど、3失策により大きく精彩を欠いてしまった。この失策の精神的ショックから帰国後、球団からメンタルカウンセラーを受ける事も検討されたが、最終的には渡辺久信監督の意向により行われなかった。
チーム復帰後の数試合は出場したが、骨膜炎によって9月16日から登録抹消となり、[2]この年のチームのクライマックスシリーズ、日本シリーズの登録メンバーからも外されてしまった。しかしながら、前半戦に補殺を多く記録していたこともあって、9月のJA全農Go・Go賞、強肩賞を獲得した。なお五輪出場選手の特別措置(G.G.佐藤の場合128試合)により規定打席に到達した。
2009年は前半戦は打率.260とあまり活躍は目立たなかったが、9月にはリーグトップの打率.400、9本塁打で2度目の月間MVPを帆足和幸と同時受賞した。この終盤の活躍で成績を一気に上げ、打率.291、ともに自己最多の25本塁打(リーグ4位)、83打点(同6位)を記録した。0ストライク時の打率は.430だった。
2010年はレフトにコンバートされる。守備の不安から2割前後の打率に低迷、三振が非常に目立った。 7月2日に2軍落ちしそのまま昇格することなく、オフに手術
使用用具 [編集]

バットはミズノ社製を使い、手袋とグローブは久保田スラッガー社製を使用している。
2008年にはフランクリン社製のバッティンググラブも使用していた。一時レノマ社製のものも使ったこともいた。

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