├─≠ョ─ヵラス KAN
├─≠ョ─ヵラス KAN(かん、1962年9月24日 - )は、日本のシンガーソングライター。本名は木村 和(きむら かん)。福岡県福岡市出身。アップフロントエージェンシー所属。
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1 略歴
2 名前の由来
3 音楽
4 コンサート
5 ファンクラブ
6 ソロ以外での活動
6.1 BAD LOOKS
6.2 Bon Marché
6.3 Pacific Heaven Club Band
6.4 パイロットとスチュワーデス
7 ディスコグラフィー
7.1 シングル
7.2 オリジナルアルバム
7.3 ベストアルバム
7.4 ライブアルバム
7.5 限定盤
7.6 ビデオ
7.7 編集盤(レーベル企画)
8 提供・参加作品
9 書籍
10 レギュラー番組
10.1 ラジオ
10.2 テレビ
11 出演
11.1 テレビCM
11.2 テレビドラマ
11.3 映画
12 関連項目
13 外部リンク
略歴 [編集]
1962年9月24日、福岡県福岡市に2人兄弟の次男として生まれる。
1967年、東田島カトリック幼稚園に入園。翌年に福岡市天神のヤマハ音楽教室に入室し、ピアノのレッスンを受ける。
1969年、福岡市立田島小学校(現 笹丘小学校)に入学。福岡市唐人町の中村順子先生にクラシックピアノを習い始める。先生宅で週1回のピアノレッスンに加え、毎週日曜日に田島バプテスト教会に通い賛美歌を歌う日々を過ごす。団地住まいにも拘らず、ピアノを2台設置するなど、両親(特に母親)の音大への進学は期待が高まっていた。4年生のときに福岡市団地対抗少年野球連盟のチームに入団、6年生でレギュラーに昇格、副キャプテンを兼任した。また、学内唯一の長髪、赤いベルボトムジーンズ、オーバーオールを着こなすなど、ファッションリーダーとしても生徒間で注目を集め、福岡の老舗デパート「岩田屋」のランドセルのテレビCM及び広告にモデルとして出演。
1975年、福岡市立友泉中学校に入学。独学でギターを持ち始め、ビートルズをコピーする。中学2年生の秋に、高校受験を理由にクラシックピアノを辞めるが、3年生の年にビートルズのコピーバンドを結成(バンド名はミートルズ)。この時に録音した音源はまだ残っており、大阪でのFM番組で放送されたこともある。KANとともにこの当時の番組に出演していたトータス松本はその音源を聴いて、中学生レベルとは思えない完成度・熱き思いに対して、あまりにも大きな衝撃を受けたために、その場ではKANにその思いを告げられずにいたが、10年程経過して再会した時に、その思いをKANに告げることができた。なお、その音源を将来CD化することも検討されている。
1978年、福岡県立城南高等学校に入学。水泳部に所属。同級部員から借りたビリー・ジョエルのアルバム『ニューヨーク52番街』に衝撃を受け、ピアノロックに目覚める(その後、KANはこのLPを、本来の所有者に発覚するまで29年間も所持)。また、この頃から曲を書き始めるようになり、同級生らとロックンロールバンドを結成する。
1981年、法政大学社会学部に入学。ピアノを買うために大学にはほとんど行かず銀座のレストランや六本木のディスコ「玉椿」でのアルバイトに明け暮れる(そのため2年生の時に留年)。1983年に福岡県立城南高等学校水泳部の先輩らが所属していたフュージョン系バンド「アネット」に、“自分のオリジナル曲をやること”を条件に加入(このバンドで演奏した曲は、KANがデビュー以降に発表した作品の中にも存在する)。1984年にヤマハ「East West '84」決戦大会で優秀賞、集英社ヤングジャンプ「Sound Contest '84」でヤングジャンプ奨励賞を受賞する。
1986年にライトリンクスコーポレーション(1988年にアップフロントエージェンシーに吸収合併)と契約。同年、大林宣彦監督作品『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』の音楽を担当する(大林宣彦とは後に「大連・尾道友港都市博覧会」での上演作品、及びKANのセカンドシングル「BRACKET」のPVでもコンビを組んでいる)。
1987年4月25日、ポリドールよりシングル『テレビの中に』及び同名のアルバムでレコード・デビュー。
1990年、シングル「愛は勝つ」がフジテレビ系『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』の挿入歌となり大ヒット。シングルは200万枚を超えるセールスとなり、オリコンチャートイン52週のロングヒットを記録する。1991年には第33回日本レコード大賞(ポップス・ロック部門)を受賞。また、第42回NHK紅白歌合戦にも出場した(その際、モーツァルト生誕200周年にかけて、モーツァルトのかつら&扮装で熱唱)。
1991年9月6日、フジテレビ『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに初登場(現在までに登場3回)。KANを呼んだのは、前の年に『雨にキッスの花束を』『新しい街で』を提供された今井美樹。
1996年11月、中国・広州の「広東国際広播音楽博覧会」に出演。「愛は勝つ」を北京語と中国語で熱唱。
1997年のコンサートツアー「LA TOUR DOMESTICA DEL DECIMO ANNIVERSARIO DAL TREDICI SETTEMBRE PASSANDO IL MIO COMPLEANNO AL OTTO NOVEMBRE」で共演したバイオリニストの早稲田桜子と、1999年4月に結婚。
2002年2月に「フランス人になりたい」と言う夢の実現の為、住居をフランス・パリに移す。また、クラシックピアノを基礎から勉強し直すため、エコール・ノルマル・ドゥ・ミュジーク・ドゥ・パリのピアノ科(ノンプロフェッショネル)第2ディヴィジョンに中途入学。翌年6月に同科第3ディヴィジョンを修了。
2004年7月に帰国し、2005年に初の単身弾き語りツアー「弾き語りばったり#1」を敢行。
2006年2月22日に4年5か月振りのシングル『カレーライス』を発表し、同年5月、初の上海ライブを新天地ARKにて行う。同年8月30日に5年振りのアルバム『遥かなるまわり道の向こうで』を発表。
2010年2月10日にニューシングル『よければ一緒に』を発表し、同年3月10日に3年5か月振りのニューアルバム『カンチガイもハナハダしい私の人生』を発表。このアルバムにて、尊敬するアーティストであるASKAとの初コラボレーション作品『予定どおりに偶然に(with ASKA)』を発表。
名前の由来 [編集]
KANの本名は木村和(きむらかん)で、名付け親は父親。地元放送局勤務であった父親は音楽関係の業務を担当しており、博多どんたくの音楽アレンジもアルバイトで行うなど音楽家でもあった。その父親は子供を3人欲しており、「創作を行うことにより(世の中の人に)平和を与えるという行動を実践する」という考えの元、第1子を「索」、第2子を「和」とし、第3子を「践」と名付けつもりでいた(結果として兄弟は2人止まり)。しかし、なぜ「和」を「かん」と読ませたのかはKAN本人も知らず、父は1990年に逝去したため、真相は謎のままとなった。
KAN自身は、本来は本名でデビューしたかったが、芸名を「KAN」とした理由は、名前を呼び間違えられやすいことと、「和」の読み方に関する質問をされると面倒だと思ったためである。なお、2005年5月に開設したオフィシャルサイトのURLは「www.kimuraKAN.com」(きむらかんドットコム)とし、開設時に通信販売限定で発売された弾き語りCD『何の変哲もない Love Songs』は、通常のアーティスト活動と区別する目的で「木村和」名義となっている。
音楽 [編集]
発表するオリジナル楽曲は全てKAN自身が作曲している(「予定どおりに偶然に」はASKAとの共作)。ほとんどの場合、曲が先で、詞は後で書くというスタイルである(他人が書いた詞にメロディーを乗せたものが原曲となった「きみを想う夜」など、例外もある)。
主に70年代から80年代にかけての洋楽に影響を受けており、特に後期のビートルズ(ジョン・レノンやポール・マッカートニーのソロ作品も含む)や、ビリー・ジョエル、スティーヴィー・ワンダー等からは、彼の音楽のルーツともいえるほど強く影響を受けている。メロディーやアレンジから彼らの音楽性を独自に研究し、それらの要素を自身の楽曲に積極的に取り入れている。また、楽曲的にスタイルを模倣した作品(パロディ)も存在する。基本的にピアノをフィーチュアした楽曲が多いが、ロックンロール、ソウル、ファンク、ジャズ、ダンスビート、ラップも取り入れるなど、取り扱うジャンルは幅広い。
作曲とアレンジは切り離せない一つの作業という考えから、自ら作成したデモテープのアレンジを、レコーディングの際に大幅に変更されることを嫌う。そのため、レコーディング現場でスタッフと喧嘩になることもあった。そうした中で、1990年発表の5thアルバム『野球選手が夢だった。』から共同アレンジャーとして参加している小林信吾には最も信頼を置いており、このアルバム以降はほとんどが小林との共同アレンジか、KANの単独アレンジである。
リズムアレンジだけでなく、ストリングスやホーンの譜面も自ら書くことも多く、その際に4小節と同じフレーズを繰り返さないというこだわりも見せている。2009年2月に出演したNHK-BS2『あなたの街で 夢コンサート』では、「愛は勝つ」のフルオーケストラアレンジを初めて自ら行い、東京フィルハーモニー交響楽団と演奏した。
デビュー前はほとんど洋楽しか聴いていなかったため、作詞に関しては影響を受けた邦楽アーティストがおらず、アマチュア時代から1987年のデビュー当初までは自ら詞を書くことは少なかった。本格的に作詞をするようになったのは1988年発表の3rdアルバム『GIRL TO LOVE』からであり(10曲中8曲を作詞)、1989年発表の4thアルバム『HAPPY TITLE−幸福選手権−』以降は全て作詞している。詞を書くペースは遅く、曲ができてから詞が完成するのに数年以上かかる場合も多い。リズムトラックまでレコーディングを済ませておきながら、詞が完成せずにアルバムへの収録が持ち越しになることもある。
コンサート [編集]
バンドライブにおいては、コントや寸劇、ダンス等、様々なパフォーマンスが盛り込まれ、KAN自身はこれらを「音楽ギャグエンターテイメントショー」と呼んでいる。例外的に1997年のツアー「LA TOUR DOMESTICA DEL DECIMO ANNIVERSARIO~」と、2001年のツアー「2001年宇宙の家」においては、ライブパフォーマンス自体にギャグを盛り込まない真面目なツアーとして開催された。ツアーメンバーのバンド名は「ヤン嶋田とニューブリーフ」。ただし、2006年以降のツアーではこのバンド名は使用されていない。
フランスから帰国した翌年の2005年、初の単身弾き語りツアー「弾き語りばったり#1」を敢行した。以後、「#2」(2005年)、「#3」(2006年)、「#5」(2007年)、「#7」(2008年)、「#11」(2009年)、「#13」(2010年)と、バンドライブを定期的に開催している。なお、ツアータイトルの#(ナンバー)は、KANが好む素数でカウントしている(#1を除く)。
2009年のバンドライブツアー「ルックスだけでひっぱって」(芸能生活23周年記念逆特別)より、ハードディスク音源との同期演奏を一切廃止。これについてKANは、「弾き語りツアーをやってきたことで、5人もいれば何でもできると思うようになった」と語っている。
コンサート終了後の陰アナでは、実際のコンサートタイトルとは違うタイトルをアナウンスし、帰り際の観客を笑わせるのが定番となっている。
ファンクラブ [編集]
1988年、オフステーション内にファンクラブ『Spunky Club』が設立され、1992年にファンクラブ事務所がアップフロントインターナショナルへ移動し、名称も『北青山イメージ開発』に変更。2002年2月、KANがフランスに移住したのを期に『北青山イメージ開発』は解散したが、帰国後、2005年9月に『北青山イメージ開発』の内容を受け継いだ有料サイト『北青山イメージ再開発』をオフィシャルサイト内に開設した。
ソロ以外での活動 [編集]
BAD LOOKS [編集]
1989年には、直枝政太郎(カーネーション)、風祭東(オールウェイズ)、清水淳らと「BAD LOOKS」を結成し、同年11月18日に大阪つかしんテントインでオープニングアクトとして出演。メンバー名義はベネット(=KAN、サイドギター)、モーリス(=直枝政太郎、リードギター)、トーマス(=風祭東、ベース)、スウィング・スター(=清水淳、ドラムス)。「BAD LOOKS」はメンバー全員がかつらやサイズの合わないスーツを着こなし、初期のビートルズを意識した演奏を展開。以後、1996年11月17日にSTVホール「LOVE & LIVE '96」、1998年7月26日に万博もみじ川芝生広場「MEET THE WORLD BEAT '98」、同年7月31日にSTVホール「STV夏まつりLIVE SPECIAL」にも出演。1996年はリードギターに2代目モーリス(本田清巳)、ベースにグレコ(西嶋正巳)と、メンバーを変更。1998年には初代モーリスこと直枝政太郎が復帰した。また、1998年にはオリジナル曲「BAD LOOKSのテーマ」をスタジオ録音し(ラジオでのオンエアのみで未発表)、プロモーションビデオも制作。
Bon Marché [編集]
1998年にはツアーメンバーでハイビジュアル系バンド「Bon Marché」(ボン・マルシェ)を結成し、ライブハウスツアー「23NIGHTS」のセルフオープニングアクトとして出演。ファッション・音楽ともにビジュアル系を意識した派手なパフォーマンスを披露した。メンバー名義はVeau(KAN、ボーカル)、Porc(中野豊、ギター)、Mega(西嶋正巳、ベース)、Volaille(清水淳、ドラムス)、Algue(矢代恒彦、キーボード)。オープニングアクトではオリジナル曲「女神 −VENUS−」「天使 −ANGEL−」「迷宮 −LABYRINTH−」の3曲を披露。これら3曲はスタジオ録音され、「女神 −VENUS−」はKANのシングル「Happy Time Happy Song」のカップリングに、「天使 −ANGEL−」と「迷宮 −LABYRINTH−」は次作のシングル「今年もこうして二人でクリスマスを祝う」のカップリングに収録された。
Pacific Heaven Club Band [編集]
1999年には、同じ事務所に所属していたスターダスト・レビュー、森高千里、east cloud、Something ELse、Chére、Temiyanらと「Pacific Heaven Club Band」を結成し、“さい帯血バンク支援コンサート”を名古屋・横浜・大阪で敢行。このためのオリジナル曲「Pacific Heaven Club Bandのテーマ」を書き下ろした(詞は大西さちこ、Chéreとの共作)。翌年2000年には谷村有美(1999年はゲスト出演)、相田翔子、田村直美が加わり(森高千里は活動休止のため脱退)、大阪・渋谷・名古屋にて再びコンサートが行なわれた。1999年の横浜アリーナ公演と、2000年の国立代々木競技場第一体育館公演はビデオ化され、出演アーティストのファンクラブ会員限定商品として発売された。
パイロットとスチュワーデス [編集]
2006年には桜井和寿(Mr.Children)とユニット「パイロットとスチュワーデス」を結成。KANがチーフパーサー、桜井が機長に扮し、ZEPP TOKYO及びZEPP OSAKAで開催されたLuckyRaccoonのライブイベント「LuckyRaccoonNight Vol.1」(2006年11月)、「LuckyRaccoonNight Vol.2」(2008年5月)に出演した。演奏曲は主にお互いの楽曲のカバーと、唯一のオリジナル曲「弾かな語り」。
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