2010年11月8日月曜日

梨田昌孝のカリスマ踊り

梨田 昌孝(なしだ まさたか、本名:梨田 昌崇(読み同じ)1953年8月4日 - )は、島根県浜田市出身の元プロ野球選手(捕手)、プロ野球監督、野球評論家。
1984年より登録名を「昌孝」としている。愛称は「ナッシー」。現在は北海道日本ハムファイターズ監督を務める。
2004年シーズンをもって消滅した大阪近鉄バファローズ最後の監督であり、選手・監督両方で同球団の優勝を経験した唯一の人物である。
プロ生活でリーグ優勝を4回経験しているが日本一を経験したことがない。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 アマチュア時代
1.2 選手時代
1.3 引退後、野球評論家へ
1.4 近鉄コーチ・監督
1.5 野球評論家復帰
1.6 日本ハム監督
2 人物
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 背番号
3.3 表彰・記録
3.4 監督としてのチーム成績
3.4.1 リーグ公式戦
3.4.2 ポストシーズン
4 著書
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
経歴 [編集]

アマチュア時代 [編集]
島根県立浜田高校時代、3年生の春・夏に甲子園に連続出場(第43回選抜大会、第53回選手権大会)するが、ともに1回戦で敗退した。1971年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。
選手時代 [編集]
1年目(1972年)から強肩を武器に頭角を現すも打撃で伸び悩み、一時は有田修三に正捕手の座を奪われるが、打席で両腕をクネクネと動かすフォーム『コンニャク打法』を開発すると勝負強い打撃を発揮し、正捕手の座を奪回。1979年には球団初のパシフィック・リーグ優勝を経験し、1981年まで3年連続ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を受賞するなど、長きに渡って近鉄の捕手として活躍した。
1986年以降は、肩や打撃面の衰えから山下和彦、古久保健二、光山英和にマスクを譲る機会が多くなる。1988年に引退。現役最後の安打は、伝説となった『10.19』のダブルヘッダー第1試合で放った決勝適時打であった。
梨田の現役時代、阪急ブレーブスには『世界の盗塁王』の異名を取る福本豊が居た。福本の盗塁にはどの球団も頭を悩ませており、当時プロ野球界で一、二を争う強肩だった梨田も例外ではなかった。梨田は考えに考え、福本が一塁に出ている際は予め右足を引いて構え、更に投球を捕ってからミットの中のボールを右手で抜き取り送球するのではなく、ミットでボールを後ろに受け流しそのまま右手で捕球することによって送球にかかる時間の短縮を図った。この工夫の甲斐あって、梨田は、福本がいたにもかかわらず5割を超える盗塁阻止率を記録した。
西本幸雄監督時代から、有田との併用が多く見られた。この2人は『ありなしコンビ』と呼ばれ、当時は「2人とも他球団に行ったらレギュラーは間違いない」と言われており、実際オフシーズンになると近鉄に「どちらかをトレードしてほしい」との希望が殺到していたという。この状態は有田が読売ジャイアンツに移籍する1985年まで続いた。この『ありなしコンビ』の成功以降、複数捕手の併用が近鉄の戦術の特徴となり、近鉄で規定打席に到達した捕手は1985年の梨田以降は一人も現れなかった。
近鉄のリーグ連覇時(1979年と1980年)の正捕手だが、当時のエースだった鈴木啓示とはバッテリーを組まなかった。理由については有田修三の項目を参照。
大阪府藤井寺市には、1985年に梨田が新居を建築しようとした際に発見された遺跡があり、「はさみ山遺跡梨田地点」(はさみやまいせき-なしだちてん)と命名されている。この遺跡は、2008年現在、大阪に人が住んでいた最古の遺跡とされ、日本国内でも最古の部類に入る遺跡であるとされている。
引退後、野球評論家へ [編集]
1989年にNHKの野球評論家に就任し、近鉄に復帰するまで務めていた。
1989年、ワールドシリーズの取材のためオークランド・アスレチックスの本拠地のオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムを訪れていた梨田はロマ・プリータ地震に遭遇、急遽現地の被害状況のリポーターを務めた。
近鉄コーチ・監督 [編集]
1993年に一軍作戦兼バッテリーコーチとして近鉄に復帰。1996年からは二軍監督を務め、2000年に一軍監督に就任。近鉄は当時コーチだった小林繁、真弓明信と梨田の三人を『近鉄男前三人衆』として売り出し、この三人を起用した近鉄百貨店の広告が近鉄沿線の駅ポスターや車内中吊りに掲げられた。また、モロゾフのホワイトデー・イメージキャラクターになったこともある。
2年目の2001年に近鉄球団を史上4度目、球団最後のパ・リーグ優勝に導いた。日本シリーズの前に、対戦相手であるヤクルトスワローズの若松勉監督とともに写真撮影に臨み、緊張の色の隠せない若松とは対照的にカメラに向けて笑顔を見せたが、1勝4敗で敗退してしまった。
2004年シーズン中、同年シーズン限りで近鉄がオリックス・ブルーウェーブと合併し、消滅することが決定した。シーズン最終戦の前日に、選手に向けて「みんな胸を張ってプレーしろ。お前たちが付けている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」という名言を残している。合併の際、近鉄のカラーを残すべく配慮したオリックス側からヘッドコーチへの転任を打診され、監督となった仰木彬からも慰留されるが「選手・スタッフやファンがばらばらになり、その進路も決まらないうちに自分一人が残るのは望ましくない」と辞退。あくまで「近鉄の梨田」としてユニフォームを脱ぐことを望んだため、球団解散前の10月15日付けで退団した[1]。
なお、近鉄で1シーズン以上務めた歴代監督16人の中で、通算成績で勝ち越しているのは三原脩、西本幸雄、仰木彬、そして梨田の4人のみである。
物腰が柔らかくジョーク好きな温厚な人物として知られているが、近鉄の二軍監督時代に、ノックアウトされてベンチにグラブを叩きつけ荒れていた前川勝彦を殴り倒したこともあった。
近鉄の監督時代は、外国人選手に対する事前評価が実際とは正反対の結果になることが多く、近鉄ファンからは「梨田の新外国人選手評は全くあてにならない」と言われた。例えば、監督就任1年目に開幕投手に起用したボブ・ウォルコットは3勝4敗、防御率6点台で1年で解雇、2年目のキャンプで投球を見て「15勝は期待できる」と高評価したウィル・フリントは1勝も出来ずシーズン途中で解雇、更にバッティングを見て「ブーマー・ウェルズに似ている」と絶賛したフレッディ・ガルシアは打率1割台、1本塁打でシーズン半ばに解雇され、「すごい投手が来た」と評したケビン・バーンも平凡な成績しか残せなかった。なお、近鉄2年目の優勝にはショーン・バーグマンやジェレミー・パウエルの活躍もあったが、球団アドバイザーだったトミー・ラソーダの推薦で、梨田の見立てではない。ただしこれらの外国人選手の評価については、悪いものをそのまま悪いと言ってしまっては戦略上支障をきたす側面もあることから(戦う前から近鉄の外国人選手は大したことないという無用のイメージを対戦相手に植え付けてしまうことになるため)、あえて表向きには高い評価をしたり絶賛の言葉を並べていたという見方もある。[要出典]
2004年10月に、京都府の伏見稲荷大社に鳥居を奉納している。千本鳥居の一角に「大阪近鉄バファローズ 梨田昌孝」と記された鳥居が現存する。
野球評論家復帰 [編集]
2005年からは12年ぶりにNHK・大阪日刊スポーツの野球評論家に復帰、かんさいニュース1番の金曜日のスポーツコーナーにレギュラー出演した他、プロ野球・メジャーリーグ野球解説などを担当。他にも、2005年7月にアニメ『プレイボール』(関西テレビ放送)で声優を務め(タイヤキ屋のおやじ役)、京橋グランシャトービルやアーククエストなどの関西ローカルのCMにも出演。また2006年6月1日には大阪産業大学の客員教授にも就任し、実業家としても個人芸能事務所「トゥルーマサ」を運営するなど多方面で活躍している。
2007年、契約交渉で揉めてオリックスを自由契約になったかつて近鉄時代の教え子の中村紀洋から相談を受けて、同級生で親友でもある落合博満に獲得を打診した。最初は断られるものの、最終的に中村は中日に育成選手として入団した(落合の項も参照)[2]。
日本ハム監督 [編集]
2008年に北海道日本ハムファイターズの監督として4年ぶりに現場復帰。前年11月25日に札幌ドームで行われた日本ハム・ファンフェスティバルにて、前監督・トレイ・ヒルマンから梨田への背番号88の継承式が行われた。就任1年目のシーズンは3位でクライマックスシリーズ第1ステージでオリックス・バファローズに2連勝し制したが埼玉西武ライオンズに2勝4敗(リーグ優勝チームに与えられるアドバンテージを含む)で敗れ日本シリーズ進出にならなかった。(リーグ優勝チームに与えられるアドバンテージを含む)、2009年、就任2年目で日本ハムを2年ぶりのリーグ優勝に導く。リーグ戦終了後に行われたクライマックスシリーズでは福岡ソフトバンクホークスとの第1ステージを制した東北楽天ゴールデンイーグルスを札幌ドームに迎えて第2ステージを戦い、4勝1敗(リーグ優勝チームに与えられるアドバンテージを含む)で見事勝利。しかし現役時代を含めて4回目の出場となった日本シリーズでは読売ジャイアンツに2勝4敗で敗れ、自身初の日本一はならなかった。
2010年1月、一軍投手コーチに就任したばかりの小林が心不全により急逝。近鉄監督時代の2004年にも、二軍打撃コーチであった鈴木貴久を急性気管支炎で失っている。この年のシーズンは一時借金14の最下位と低迷しながら、シーズン終盤にはクライマックスシリーズへの出場権をかけた3位争いをするところまで浮上。全日程を終了した時点では3位であったが、千葉ロッテマリーンズが最後の3試合を全勝すれば3位浮上という状況の中で全勝したため、最終的には4位(日本ハム5年ぶりのBクラス)でシーズンを終えた。ちなみにこの年4位になったことで、梨田は監督として全ての順位を経験することになった。
人物 [編集]

ジョークやダジャレ好きとして有名であり、しばしばコメントの中に取り入れている。
選手の一人である榊原諒と誕生日が同じである。

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