フレデリック・ノース(Frederick North、1732年4月13日 - 1792年8月5日)は、イギリスの政治家である。1770年 から 1782年まで首相を務めたが、在任期間の後半はアメリカ独立戦争への対応に追われた。財務大臣や内務大臣など多くの閣僚も経験した。第2代ギルフォード伯爵(Earl of Guilford)、ガーター勲章受章者、枢密院顧問。1752年から1790年まで使った名目的称号であるノース卿と呼ばれることが多い。
目次 [非表示]
1 初期の経歴(1732年-1754年)
2 初期の政歴(1754年-1770年)
2.1 財務大臣
3 首相(1770年-1782年)
3.1 指名
3.2 フォークランド危機
3.3 アメリカ独立戦争
3.4 辞任
4 フォックス・ノース連立政権(1783年)
5 晩年(1783年-1792年)
6 遺産
7 結婚と家族
8 生誕から死までの称号
9 語録
10 脚注
11 参考文献
12 外部リンク
初期の経歴(1732年-1754年) [編集]
フレデリック・ノースは1732年4月13日に、ピカデリーから直ぐのアルベマール通りにあった家族の家で、6人兄弟の総領として生まれた[1]。ただし若い時はオックスフォードシャーにあるロクストン修道院で過ごすことが多かった。ノースが国王ジョージ3世に良く似ていたことから同時代の者達には、フレデリック王子がノースの本当の父である(つまり国王の兄である)と思わせた。王子の評判から有り得る話ではあったが、実際の証拠はほとんど無い[2]。ノースの父、すなわち初代伯爵は当時フレデリック王子の侍従であり、王子はノースの名付け親になった。
ノースは初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューの子孫であり、サミュエル・ピープスやビュート伯ジョン・スチュアートとも繋がりがあった。ノースは当時父のギルフォード伯と幾分不穏な関係にあったが、大変密接な状態を維持した。ノースが若い時、家庭は裕福ではなかったが、父が従兄弟から資産を継承した1735年にその状態は改善された[3]。母のルーシー・モンタギューは1734年に死んだ。父は再婚したが、継母のエリザベス・ノースもノースが13歳だった1745年に死んだ。異腹の弟の一人がウィリアム・ダートマス卿であり、生涯近しい友人となった[4]。
ノースは1742年から1748年までイートン校で学び、1750年にはオックスフォード大学トリニティ・カレッジで文学修士の学位を得た。オックスフォードを出た後は、ダートマスと共にヨーロッパを大旅行し、ライプツィヒ大学で学び、ウィーン、ミラノ、パリを巡って1753年にイギリスに戻った。
初期の政歴(1754年-1770年) [編集]
1754年4月15日、ノースは22歳でバンベリー選挙区から下院議員に無投票で選出された[5]。
このときから1790年まで下院議員を務めた。1759年6月2日にニューカッスル公トーマス・ペラム・ホールズとチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)の連立内閣に財務次官として初入閣した。間もなく良い行政官、議員としての評判を獲得し、概して同僚にも好かれた。当初はホイッグ党員だと考えていたが、多くの同時代人にとって、ノースの考え方はトーリー党寄りであることが明白になり、議会のホイッグ党の誰とも密接な連携をくむことは無かった[6]。
1763年11月、ジョン・ウィルクスの問題に関して政府を代表して演説する者に選ばれた。ウィルクスは下院議員であり、その急進的新聞「ザ・ノース・ブリトン」で首相や国王に対して中傷的な攻撃をしたと多くの者が考えていた。ノースが提案したウィルクスを下院から追放するという動議は173票対111票で可決された。ウィルクスは決闘をした後でフランスに逃亡しており、その欠席のままで除名が決まった[7]。
1765年に権力を得たホイッグ党の有力者ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワースによって政府が動かされるようになると、ノースは閣外に去り、暫くは平議員となった。ロッキンガム侯からの再入閣提案があったが、内閣を支配している富裕なホイッグ党高官と付き合うことになるのを恐れたことが大きく、それを断った[8]。
1766年に大ピットが第二次内閣として戻ってきたときにノースは復帰した。ピット内閣で陸軍主計官に指名され、枢密院顧問になった。ピットが病気がちだったので、政府は実質上オーガスタス・フィッツロイによって運営され[9]、ノースはその最上級メンバーの一人だった。
財務大臣 [編集]
1767年12月、ノースはチャールズ・タウンゼンドの後を受けて財務大臣となった。1768年初期に国務大臣ヘンリー・シーモア・コンウェイの辞任により、ノースは下院院内総務にもなり、ピットの後継者であるグラフトン公の下で仕え続けた。
首相(1770年-1782年) [編集]
国の修繕屋(1780年)、ジェイムズ・ギルレイがノース(右下、跪いている)とその同盟者を国という鍋の無能な修繕屋として戯画化した。ジョージ3世は後方で大喜びして叫んでいる。
指名 [編集]
1770年1月28日、グラフトン公が首相を辞任したことを受けて、ノースが首相となった。その閣僚や支持者達はトーリーと呼ばれるようになったが、これは正式な党派ではなく、多くの者は以前ホイッグ党に属していた。ノースは七年戦争の後で勝利国イギリスを引き継ぎ、イギリス帝国はその頂点に達しているように見えた。諸般の事情によりその前の閣僚の多くをそのまま就かせておくことを強いられたが、ノースの考えへの同意は得られていなかった[10]。
フォークランド危機 [編集]
ノース政権は1770年の戦争寸前までいったフォークランド危機で、スペインのフォークランド諸島占領の試みを屈服させ、初期の成功を掴んだ[10]。フランスもスペインも七年戦争でイギリスが勝利した後は、イギリスが支配していると受け取られることに不満なままだった。しかし、ルイ15世はフランスが戦争できる状態ではないと考え、イギリス艦隊の強力な機動性を前にして、スペインに妥協を強いた。ルイ15世はイギリス侵略を提唱していたタカ派の宰相であるエティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズールの解任までした。
政府の権威と人気はこの事件で大きく持ち上げられた。フランスとスペインの間にうまく楔を打ち込み、イギリス海軍の力を誇示した。ただし、このことでノース卿にあるレベルの自己満足を与え、ヨーロッパ列強はイギリス植民地の事情に干渉することはないという誤った考えを植えつける事になったという批評家がいた。2年前のコルシカ危機ではイギリスの同盟相手であるコルシカ共和国をフランスが併合するの妨げられなかった前政権とは対照的になった。ノースは新たに築かれた人気を使って、第4代サンドウィッチ伯ジョン・モンタギューを初代海軍大臣に指名する機会を捉えた。
アメリカ独立戦争 [編集]
ノース政権の大半は先ずアメリカ植民地との大きくなっていく問題に、そして後にはレキシントン・コンコードの戦いに続いて1775年に勃発したアメリカ独立戦争に集中した。ノースは戦争の全体戦略をキーとなる部下であるジョージ・ジャーメインとサンドウィッチ伯爵に任せた。1778年にフランスがアメリカの反逆者に加担し、1779年にはスペインがフランスの同盟国として参戦した。さらには1780年にマイソール王国やオランダが参入した。イギリスは同盟国が一つも無いままに4大陸で地球規模の戦争をすることになった。
この難局に、イギリスの海上封鎖戦略に対抗する形で形成された武装中立同盟が加わり、バルト海からのイギリス海軍の物資供給に脅威となった。深刻な人員不足に直面したノース政権は、以前にカトリック教徒が軍務に就くことを禁じた法律を撤廃する法案を可決した。このことで反カトリック感情を急激に高まらせ、ロンドンでのゴードン暴動に繋がった。
辞任 [編集]
1782年3月27日、前年のヨークタウンでの敗北のために、イギリス議会では初めて、実際には世界でも初めて、ノースは不信任決議案によって首相を辞任せざるを得なくなったという不名誉な特徴がある。アメリカ独立戦争を終わらせるために、彼は和解案を提案した。その提案は、植民地が戦いを止めれば、すべての「耐え難き諸法」を撤回することを約束するものだった。植民地は、その望むことは独立であるとして、この提案を拒絶した(有名な話だが、ノースはこのことを聞いて「なんてことだ。すべては終わった。終わりだ!」と叫んだという)。
皮肉な事に1782年はノース卿やサンドウィッチ伯が採用した政策が大きくものを言って海軍が勝利し、戦争はイギリスに再度傾きかけた。1783年にイギリスはノースが辞めさせられたときよりもかなり有利な休戦条件を設定する事ができた。
ノースの肖像画(1753年)、油絵、ポンペオ・バトーニ画
フォックス・ノース連立政権(1783年) [編集]
1783年にノースは復活を果たした。急進派ホイッグ党首チャールズ・ジェームズ・フォックスとフォックス・ノース連立として知られるありそうもない連立を行い、ポートランド公ウィリアム・ヘンリー・カヴェンディッシュ・ベンティックを名目上の首相に据え、自らは内務大臣となった。イギリス王ジョージ3世は急進的で共和主義者のフォックスを忌み嫌い、このことを裏切りとして許さなかった。この内閣が倒れたその年の12月でノースの閣歴は終わった。この連立内閣の大きな成果の一つはアメリカ独立戦争を終わらせるパリ条約に署名したことだった。
新しく首相になったウィリアム・ピット(小ピット)は長持ちするとは考えられず、ノースは声に出してピットを批判し、再度首相に復帰できる望みを抱いていた。ピットはその後の20年間を政界に君臨し続け、ノースとフォックスを野党暮らしさせたので、ノースは憤懣が募ることになった。
晩年(1783年-1792年) [編集]
ノースは失明した1790年に下院を去り、その後直ぐに父のギルフォード伯爵を継承し、晩年を貴族院で過ごした。ロンドンで1792年に亡くなり、彼のロクストン修道院の家に近いオクスフォードシャー州ロクストンのオールセイント教会に埋葬された。息子のジョージ・ノースがバンベリーの選挙区を継承し、1792年には父の爵位も継いだ。
皮肉なことに、ノースの家ロクストン修道院は現在、アメリカのフェアリー・ディキンソン大学所有になり、改修された修道院はアメリカから来る留学生が勉強する場所となっている。
遺産 [編集]
ノース卿は今日「アメリカを失った」首相として記憶されている。
ノースカロライナ州ギルフォード郡はノース卿の父に因んで名付けられた。ギルフォード郡は1771年に創設され、今日郡内にはグリーンズボロやハイポイントの都市があり、ノースカロライナ州で3番目に人口の多い郡となっている。
エディンバラ城に展示されている18世紀のドアにはアメリカ独立戦争の間に捕まえられた囚人によって彫られた「ノード卿」と記された処刑台が見られる。
結婚と家族 [編集]
ノースは1756年にアン・スピーク(1741年-1797年)と結婚した。夫妻には次の6人の子供が生まれた。
第3代ギルフォード伯ジョージ・オーガスタス・ノース(1757年9月11日-1802年4月20日)、先ず1785年9月30日に第3代バッキンガムシャー伯の娘マリア・フランシス・メアリー・ホバート=ハンプデン(1794年4月23日に死去)と結婚し、子供ができた。次に1796年2月28日にスーザン・クーツ(1837年9月24日死去)と再婚した。
キャサリン・アンナ・ノース(1760年-1817年)
第4代ギルフォード伯フランシス・ノース(1761年-1817年)
レディ・シャーロット・ノース・リンゼー(?-1849年10月25日)、1800年4月2日に第5代バルカレス伯の息子ジョン・リンゼー中佐(1762年3月15日-1826年3月6日)と結婚した。
第5代ギルフォード伯フレデリック・ノース2世(1766年-1827年)
レディ・アン・ノース・ベイカー=ホルロイド(1783年以前-1832年1月18日)、1798年1月20日に初代シェフィールド伯ジョン・ベイカー=ホルロイドと結婚し、2人の子供が生まれた。
生誕から死までの称号 [編集]
フレデリック・ノース閣下(1732年-1752年)
ノース卿(1752年-1754年)
ノース卿、下院議員(1754年-1766年)
ライト・アナラブル、ノース卿、下院議員(1766年-1772年)
ライト・アナラブル、ノース卿、ナイト、下院議員(1772年-1790年)
ライト・アナラブル、ノース卿、ナイト、(1790年)
ライト・アナラブル、フィルフォード伯、ナイト、枢密院(1790年-1792年)
語録 [編集]
「なんてことだ!全ては終わりだ」ヨークタウン降伏の報せを聞いたとき
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