アメリカ合衆国下院議長(アメリカがっしゅうこくかいんぎちょう、英語: Speaker of the United States House of Representatives)は、アメリカ合衆国下院を主宰する役職、またはその人である。現在開会されている第112連邦議会(2011年1月 -)における下院議長は、オハイオ州第8選挙区選出の共和党員ジョン・ベイナーである。
下院議長は大統領権限継承順位について、副大統領に次ぐ第2位にあり、第3位の上院仮議長より上席にある[1][2]。このため下院議長は、大統領が万が一執務不能に陥った際、副大統領が欠けている、あるいは副大統領も揃って執務不能に陥った場合には大統領権限を継承することになる極めて重要なポストである[3]。イギリスの庶民院(下院)議長などとは異なり、アメリカの下院議長は通常自ら議事を主宰・進行することはせず、自身の所属する政党の他の議員にその任務を委託する。下院と多数派政党の代表者に関わる任務以外に、管理的および手続に関する機能も遂行し、またその選挙区の代表でもあり続ける。
目次 [非表示]
1 選出
2 歴史
3 著名な議長選挙
4 党派の役割
5 主宰職
6 その他の機能
7 関連項目
8 脚注
9 外部リンク
選出 [編集]
下院議長は連邦議会の新しい会期初日に選出される。選挙はアメリカ合衆国下院書記官によって取り仕切られ、各政党が候補者を指名する。投票の単純多数を得たものが選出され、選出後、下院議員の中で最も議員歴の長い者、下院長老 (Dean of the House) の媒介で宜誓就任する。アメリカ合衆国憲法には、下院議長が現職下院議員でなければならないという規定はないが、これまで選出された下院議長は全て現職議員であった。
現代のやり方では、下院議長は下院の多数派政党によって選ばれている。通常下院議員選挙から2、3週間後には誰が新しい下院議長になるか明らかになっている。下院議員は所属する政党の候補者に投票すると考えられている。そうしない場合は、通常所属政党の他の誰か、あるいは「現職」に投票する。他の政党の候補者に投票することは大変重大な問題として扱われる。例えば、2001年の下院議長選挙で民主党のジム・トラフィカントが共和党のデニス・ハスタートに投票したとき、民主党はトラフィカントの序列を剥奪した。
歴史 [編集]
初代下院議長はフレデリック・ミューレンバーグであり、アメリカ合衆国議会最初の4会期で連邦党員として選出された[4]。しかし、当初の下院議長は大変影響力のある役職ではなく、ヘンリー・クレイが就任(1811年-1814年、1815年-1820年、および1823年-1825年)して変わった。クレイはその多くの前任者達とは対照的に、幾つかの議論に参加し、支持する手段を成立させるために影響力を使った。例えば、米英戦争の宣戦布告やクレイの「アメリカ・システム」に関わる様々な法律がそうだった。さらには、1924年アメリカ合衆国大統領選挙でどの候補者も選挙人選挙の過半数を取れなかったとき、大統領は下院で選出されることになった。下院議長のクレイは最大多数を得ていたアンドリュー・ジャクソンの代わりにジョン・クィンシー・アダムズへの支持を表明し、それによってアダムズの当選を確実にした。1825年にクレイが議長職を引退した後、再度下院議長の権限は減退した。しかし、それと同時に下院議長選挙は激しいものになっていった。南北戦争が近付くと、幾つかの会派がそれぞれ候補者を指名し、しばしばどの候補者も過半数を獲得するのが難しくなった。例えば1855年とさらに1859年、下院議長の指名争いは落ち着くまでに2ヶ月間も続いた。下院議長の任期は大変短くなる傾向があった。例えば、1839年から1863年の間に、11人の下院議長が存在し、1期を超えて務めた者は1人だけだった。
ヘンリー・クレイはその下院議長としての影響力を駆使して好む手段の成立を確実にした。
19世紀の終わり近くなって、下院議長職は大変強力なものに変わり始めた。下院議長の権限の最も重要な源泉は議院運営委員会委員長職を兼ねたことであり、この委員会は1880年にその仕組みが作られた後は、下院の中でも最も強力な位置にある委員会となった。さらに、何人かの下院議長は所属政党の中で指導的人物となった。例えば、民主党のサミュエル・J・ランドール、ジョン・グリフィン・カーライルおよび、チャールズ・フレデリック・クリスプ、共和党ではジェイムズ・G・ブレイン、トマス・ブラケット・リードおよびジョーゼフ・ガーニー・キャノンがいた。
下院議長の権限は、共和党のトマス・ブラケット・リードの任期(1889年-1891年および1895年-1899年)の間に大きく強化された。リードはその敵対者から「リード皇帝」とも呼ばれており[5]、特に「消滅する定足数」と呼ばれる戦術に対抗することで、少数党による法案の妨害を終わらせようとした[6]。動議に関する採決を拒否することで、少数党は定足数が満たされないようにすることができ、採決結果は無効になった。しかし、リードは議場にいるが投票を拒んだ者も定足数を決定するときに勘定に入れられると宣言した。リードはこのことや他の規則を通じて、民主党が共和党の議事日程を妨害できないようにした。下院議長職は共和党のジョーゼフ・ガーニー・キャノンの任期(1903年-1911年)でその最高点に達した。キャノンは法案成立の過程を異常なくらい統制した。下院の議事日程を決定し、全委員会の委員を指名し、委員長を選択し、議院運営委員会を主宰し、またどの委員会がどの法案を審議するかを決定した。共和党の提案が下院を通過することを確実にするために、活発にその権限を使った。しかし1910年、民主党と共和党の不満分子何人かが結託し、下院議長から委員会委員を指名することや議院運営委員会委員長を含め多くの権限を奪った。この役職の失われた影響力全てではないが、その多くは15年以上後の下院議長ニコラス・ロングワースが復活させた。
ジョーゼフ・ガーニー・キャノンは、下院史上最も強力な下院議長だと考えられることが多い
20世紀半ば、歴史上でも最大級の影響力を持った下院議長は民主党のサム・レイバーンだった[7]。レイバーンは歴史の中でも最も長期間下院議長職にあった者であり、1940年-1947年、1949年-1953年、および1955年-1961年を務めた。多くの法案の形成に貢献し、下院委員会には背後で静かに働きかけた。フランクリン・ルーズベルトとハリー・S・トルーマン各大統領が提唱する幾つかの国内政策や海外援助計画成立を確実にすることにも貢献した。レイバーンの後継者、民主党のジョン・ウィリアム・マコーマック(1962年-1971年)は幾分影響力の薄い下院議長だったが、これは民主党の若手議員の間にあった不満が特別な原因になった。1970年代半ば、民主党のカール・アルバートの下で下院議長の権限は再び大きくなった。議院運営委員会は1910年の改革以来そうであった半独立的委員会であることを止めた。その代わりに、再度党指導層の武器になった。さらに1975年、下院議長は議院運営委員会の委員過半数を指名する権限を認められた。一方、委員長の権限は抑えられ、下院議長の相対的影響力を増すことになった。
アルバートの後継者、民主党のティップ・オニールはロナルド・レーガン大統領の政策に公然と反対したことで著名な下院議長となった。オニールは中断なく下院議長を務めた期間(1977年-1987年)では最長となった。オニールはレーガンの国内計画や防衛費に異議を唱えた。共和党員は1980年と1982年の選挙運動でオニールをその標的にした。それでも民主党はどちらの選挙も多数派を維持できた。党の役割は1994年に逆になった。共和党は40年間少数派に甘んじた後、下院多数派を奪い返した。共和党の下院議長ニュート・ギングリッチは、常にビル・クリントン大統領と対決した。特にギングリッチの掲げる「アメリカとの契約」が争いの元だった。ギングリッチは共和党が1998年の議会選挙で敗北し、わずかに多数派を守った時に失脚し、その後継者デニス・ハスタートはかなり目立たない役割を演じた。2006年中間選挙で民主党が下院の多数派となった。2007年1月4日に招集された第110議会でナンシー・ペロシが下院議長になり、初めての女性議長となった。
著名な議長選挙 [編集]
歴史を振り返ると、1839年の議長選挙のように幾つかの議論の多い下院議長選挙が行われた。1839年の場合、議会は12月2日に招集されたが、「ブロードシール(州章)戦争」と呼ばれるニュージャージー州での選挙論争のために12月14日まで下院議長選挙を始められなかった。2つの競争関係にある議員団、1つはホイッグ党でもう1つは民主党がニュージャージー州政府の異なる部門から選出されたと証明されていた。問題は、論争の結果がホイッグ党と民主党のどちらが多数派を握るかを決めることになるために複雑だった。どちらの党も敵対する党の代表団が出席している時に下院議長の選挙を認めようとはしなかった。最終的に選挙からどちらの代表団も外すことになり、下院議長は12月17日に選出された。
また、1855年の第34期議会ではさらに長い戦いが起こった。新しい共和党はまだ十分に形成されておらず、大半が元ホイッグ党員のかなりの数の政治家が反対党のラベルで議員職を求め出馬した。このラベルは、ホイッグという名前では信用が無くなって放棄されているが、元ホイッグ党員は民主党には反対しているということを知らせる必要があったために使われたと見られている。選挙の後、実際に反対党が下院の最大党となり、議員数234に対し、反対党100、民主党83、およびアメリカ党(ノウ・ナッシング党)51となった。ノウ・ナッシング党のために、共和党も民主党もその候補者が過半数を得られなかった。妥協のために共和党はノウ・ナッシング党候補者ナサニエル・プレンティス・バンクスを指名した。これはアメリカの議会両院で初めて連衡政府ができた例となった。下院は第36期、第37期および第38期でも同じような板挟みに陥った。これらの会期で選ばれた3人の下院議長は、皮肉なことに以前のブロードシール戦争の議論でホイッグ党の代表団を証明したニュージャージー州知事のウィリアム・ペニントン、次がガルーシャ・A・グロウ、最後はユリシーズ・グラント政権で副大統領になったスカイラー・コルファクスだった。
下院の議長選挙で1回では決まらなかったものは第65期と第72期が最後となった。1917年、3人の進歩党とその他の党の単一議員がそれぞれの候補者に投票したために、共和党と民主党のどちらの候補者も過半票を得られなかった。共和党は下院で最大党派だったが進歩党の支持のためにジェイムズ・クラークが下院議長に留まった。1931年、共和党と民主党の議員数はどちらも217人となり、ミネソタ農夫労働者党の1人がどちらに投票するかを決める者となった。農夫労働者党は最終的に民主党候補者ジョン・ナンス・ガーナーに投票し、ナンスは後にフランクリン・ルーズベルト政権の副大統領になった。
最近の下院議長選出で注目すべきは1999年のものだった。1998年の総選挙で共和党の成績が揮わなかったことを広く責められたニュート・ギングリッチ議長は再選を求めず、下院からの引退を宣言した。その予想された後継者は歳出委員会委員長のボブ・リビングストンであり、共和党大会でも反対無く候補指名を受けた。しかし、リビングストンはビル・クリントンのセクハラ裁判でその偽証を公に批判していた者だったが、自身が不倫に関わっていたことが暴露された後で突然下院議員を辞職した。その結果、次席のデニス・ハスタートが下院議長に選ばれて務めることになった。
ナンシー・ペロシ
2006年11月16日、当時下院民主党院内総務だったナンシー・ペロシが次の下院議長になるべく民主党から選ばれた[8]。第110期議会は2007年1月4日に招集され、ペロシは共和党候補者ジョン・ベイナーと争い、233対202の票決で第60代下院議長に選出された。ペロシは下院議長に選ばれた最初の女性であり、当然ながらアメリカ合衆国大統領の承継順位第2位にある。
党派の役割 [編集]
アメリカ合衆国憲法には下院議長の政治的役割を規定していない。しかしこの役職は歴史の中で成長してくるにつれて、はっきりと党派的役割と解釈され、綿密に非党派的であることが目されるイギリス庶民院議長とは大変異なっている。アメリカ合衆国の下院議長は伝統的に下院多数党の頭であり、多数党院内総務の役割を超えている。しかし、下院議長は通常議事に参加しない(参加する権利はある)し、議場で投票することは滅多にない。
下院議長は多数党が支持する法案を下院で成立させることを保証する義務がある。この目標を達成するために、下院議長はいつ各法案を議題にするかを決定する権限を使っても良い。多数党の下院運営委員会も宰領する。下院議長は下院多数党の首長として機能するが、上院の臨時議長は必ずしもそうはならず、その役職は主に儀礼と名誉のためのものである。
下院議長と大統領が同じ党に属するとき、下院議長は通常多数党指導者としてそれほど顕著な役割を果たさない。例えば、デニス・ハスタートは同じ共和党のジョージ・W・ブッシュ大統領の任期中、重要性の大変低い役割となった。一方下院議長と大統領が対立する政党に属するとき、下院議長の公的役割と影響力は増大する。下院議長は反対党の最高位にある者であり、通常大統領の議題にとって主要な公的対立者である。最近の例としてロナルド・レーガン大統領の国内および防衛政策についてうるさい反対者だったティップ・オニール、国内政策の統制についてビル・クリントンと激しく争ったニュート・ギングリッチ、および国内政策やイラク戦争でジョージ・W・ブッシュと衝突したナンシー・ペロシが挙げられる。
主宰職 [編集]
下院議長は下院を主宰する役職者として様々な権限があるが、通常は多数党の他の議員にそれらを委託する。下院議長は下院議員の誰かを臨時議長に指名し下院を主宰させることができる。重要な議論があるとき、臨時議長は宰領の能力故に選ばれた多数党の古参議員となるのが通常である。その他の場合、より若手の議員が宰領を任されて下院の規則や手続に関する経験を積むようにされている。下院議長は特別の目的で臨時議長を指名することもできる。例えば、長い休暇の間には、ワシントンD.C.に近い選挙区選出の議員が成立した法案に署名するために臨時議長に指名される。
下院の議場では主宰する役職者は何時も「ミスター・スピーカー」あるいは「マダム・スピーカー」と呼ばれ、これは下院議長が自ら主宰していないときでも同じである。下院が全院委員会に分かれたとき、下院議長は1人の議員が委員会の委員長として主宰するよう指名し、その委員長は「ミスター・チェアマン」あるいは「マダム・チェアマン」と呼ばれる。委員が発言する前に委員長は主宰する役職者の確認を求めなければならない。主宰する役職者はその望む委員の発言を求めることができ、それによって議論の流れを制御できる。主宰する役職者はあらゆる議事進行上の問題も規定するが、そのような規定は全下院に要請しても良い(ただし、この要請は何時も党路線を決める投票に提出される)。下院議長は下院における作法を維持する責任があり、守衛官に規則を強制させる命令を出しても良い。
下院議長の権限と義務は議場を主宰すること以外にも及んでいる。特に下院議長は委員会の進行に強い影響力を持っている。強力な議院運営委員会委員13人のうち9人を選出し、多数党大会の承認を得ることになっている(残り4人は少数党指導層が選ぶ)。さらに、特別委員会や協議委員会の全委員を指名している。また法案が提出されたとき、どの委員会でそれを検討するかを決定する。下院議長は下院議員として議論と投票に参加できる資格がある。しかし、慣習的には特別な事情が或る場合を除きそれは行わない。通常その1票が決着を付けることになるとき、および非常に重要な問題(憲法修正など)にのみ実行する。
その他の機能 [編集]
議会の両院合同会議や合同集会が下院議場で開催されるので、下院議長は、アメリカ合衆国憲法修正第12条で規定される上院議長が選挙人選挙票を開票し大統領当選者を宣言するために招集される合同会議を主宰する場合を除き、合同会議や集会を全て主宰する(修正第12条では、「上院議長は上下両院の前で選挙人票の証明書全てを開票する」と明確に規定している)。
下院議長はさらに、下院の役職者、すなわち下院書記官、守衛官、最高総務責任者および下院付き牧師を監督する責任がある。牧師を除きこれら役職者を解任できる。下院議長は下院歴史官と法務顧問を指名し、また下院多数党院内総務および少数党院内総務と共に下院監察長官を指名する。
下院議長は、1947年の大統領承継法に基づき、アメリカ合衆国副大統領に次いでアメリカ合衆国大統領の継承順位第2位にある。継承順位の次は上院臨時議長および連邦政府長官達が続く。しかし、学者によってはこの継承法の規定が違憲であると言う者がいる[9]。
今日まで大統領継承法の行使は一度も必要にならなかった。下院議長で大統領になった者はいない。この法の行使は1973年にスピロ・アグニュー副大統領が辞任した時に、必要となる寸前まで行った。当時の多くの者は、リチャード・ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任し、下院議長カール・アルバートが継承することになると考えた。しかし、ニクソンは辞任する前に、アメリカ合衆国憲法修正第25条に従い、ジェラルド・フォードを副大統領に指名した。それでもアメリカ合衆国政府は下院議長の継承順位が重大であると見なしており、例えば、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の直ぐ後以来、下院議長は選挙区への行き帰りなど移動するときに軍のジェット機を使っている。憲法修正第25条に従い、大統領が職務遂行不能あるいは職務再開の場合に申告しなければならない役職者の1人が下院議長である。最後に下院議長は選出された選挙区有権者の代表であり続ける。しかし、上述したように下院議長は通常投票や議論に参加しない。
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