2011年1月11日火曜日

スタンリー・ボールドウィン

スタンリー・ボールドウィン(Stanley Baldwin, 1867年8月3日 - 1947年12月14日)は、イギリスの保守党の政治家、実業家、首相(在任期間 第一次内閣:1923年 - 1924年、第一次内閣:1924年 - 1929年、挙国一致内閣:1935年 - 1937年)。
経歴 [編集]

イングランドのウスターシャーの有名な鉄鋼業者の家の生まれ。ハーロー校とケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学ぶ。
20年近く家業にたずさわった後、1908年下院議員となり、保守党に属した。17~21年大蔵財務次官、21~22年商務院総裁として入閣。22年保守党のロイド・ジョージ連立内閣からの脱退を主張してこれを崩壊せしめ、ボナー・ロー保守党内閣に蔵相となり、戦債問題処理のためワシントンに出張した。1923年に組閣するが、選挙で労働党にやぶれて翌年に退陣する。同年、ラムゼイ・マクドナルド(1866年 - 1937年)が退陣すると再び組閣。このとき、遂に男女平等選挙権を認める(第五次選挙法改正、1928年)。翌年、再び労働党にやぶれる。 1930年より、母校ケンブリッジ大学の総長を17年間務める。 1931年にマクドナルドが挙国一致内閣を組織すると、枢密院議長として入閣。 1935年マクドナルドが病気のため引退すると、その後を受けて組閣(~1937年)。翌年新王エドワード8世のシンプソン夫人との結婚問題について王を退位させた。 ナチス・ドイツに対しては、宥和政策の立場をとるが、ネヴィル・チェンバレン(1869年 - 1940年)ほど積極的ではなく、消極的宥和政策といわれる。伯爵を授けられた。

アンドルー・ボナー・ロー

アンドルー・ボナー・ロー(Andrew Bonar Law、1858年9月16日 – 1923年10月30日)は、イギリスの政治家。1922年10月23日から1923年5月22日までイギリスの首相を務めた。
経歴 [編集]

カナダのニューブランズウィック州に生まれ、スコットランドのグラスゴーで教育を受け、この地で鉄工業に従事して成功、1900年保守党(自由統一党)所属下院議員として政界に進出、1902年商務院政務次官となった。チェンバレンの関税改革論を支持、1909年のロイド・ジョージの有名な予算案に反対、1911年保守党下院院内総務に選ばれた。1914年第一次世界大戦に際しては自由党内閣を支持、翌年連立内閣に植民地相として入閣、1916年ロイド・ジョージ連立内閣に蔵相、戦時内閣閣僚として重きをなした。1919年国璽尚書、講和会議全権となり、1921年には病気のため辞職したが、翌年連立内閣崩壊の後をうけて保守党内閣を組織、1923年再び病気のため辞職、まもなく死亡した。

2011年1月10日月曜日

第2代シェルバーン伯ウィリアム・ペティ

初代ランズダウン侯、第2代シェルバーン伯ウイリアム・ペティ=フィッツモーリス(William Petty-Fitzmaurice, 1st Marquess of Lansdowne and 2nd Earl of Shelburne、1737年5月2日 - 1805年5月7日)はホイッグ党政治家、イギリス首相(在任:1782年 - 1783年)。
大ピットの盟友であり、シェルバーン内閣(1782-83)では小ピットが蔵相であった。アメリカ独立戦争を終結させた条約の一つであるパリ条約の交渉に当たった。シェルバーン内閣に対抗するノースとフォックスの連立が、1783年の辞任につながった。ポートランド公を名目上の首相としたこのノース・フォックス連立政権は短命であり、1783年12月に小ピット内閣が成立した。
この時シェルバーンは閣僚に加わらず、1784年にランズダウン侯爵の爵位を与えられた。これ以降もシェルバーンはピット政権を支持したが、政治の表舞台には姿を現さなくなる。
党政治から超然としていたため傲慢だといわれることもあるが、概して啓発的な意見の持ち主だった。例えば、カトリックの解放や自由貿易、議会改革や経済改革を提唱している。とくに小ピットの財政政策には、シェルバーン伯の影響が見られる。
文学や絵画・彫刻などに理解があり、晩年には芸術の保護に力を入れた。

フレデリック・ノース

フレデリック・ノース(Frederick North、1732年4月13日 - 1792年8月5日)は、イギリスの政治家である。1770年 から 1782年まで首相を務めたが、在任期間の後半はアメリカ独立戦争への対応に追われた。財務大臣や内務大臣など多くの閣僚も経験した。第2代ギルフォード伯爵(Earl of Guilford)、ガーター勲章受章者、枢密院顧問。1752年から1790年まで使った名目的称号であるノース卿と呼ばれることが多い。
目次 [非表示]
1 初期の経歴(1732年-1754年)
2 初期の政歴(1754年-1770年)
2.1 財務大臣
3 首相(1770年-1782年)
3.1 指名
3.2 フォークランド危機
3.3 アメリカ独立戦争
3.4 辞任
4 フォックス・ノース連立政権(1783年)
5 晩年(1783年-1792年)
6 遺産
7 結婚と家族
8 生誕から死までの称号
9 語録
10 脚注
11 参考文献
12 外部リンク
初期の経歴(1732年-1754年) [編集]

フレデリック・ノースは1732年4月13日に、ピカデリーから直ぐのアルベマール通りにあった家族の家で、6人兄弟の総領として生まれた[1]。ただし若い時はオックスフォードシャーにあるロクストン修道院で過ごすことが多かった。ノースが国王ジョージ3世に良く似ていたことから同時代の者達には、フレデリック王子がノースの本当の父である(つまり国王の兄である)と思わせた。王子の評判から有り得る話ではあったが、実際の証拠はほとんど無い[2]。ノースの父、すなわち初代伯爵は当時フレデリック王子の侍従であり、王子はノースの名付け親になった。
ノースは初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューの子孫であり、サミュエル・ピープスやビュート伯ジョン・スチュアートとも繋がりがあった。ノースは当時父のギルフォード伯と幾分不穏な関係にあったが、大変密接な状態を維持した。ノースが若い時、家庭は裕福ではなかったが、父が従兄弟から資産を継承した1735年にその状態は改善された[3]。母のルーシー・モンタギューは1734年に死んだ。父は再婚したが、継母のエリザベス・ノースもノースが13歳だった1745年に死んだ。異腹の弟の一人がウィリアム・ダートマス卿であり、生涯近しい友人となった[4]。
ノースは1742年から1748年までイートン校で学び、1750年にはオックスフォード大学トリニティ・カレッジで文学修士の学位を得た。オックスフォードを出た後は、ダートマスと共にヨーロッパを大旅行し、ライプツィヒ大学で学び、ウィーン、ミラノ、パリを巡って1753年にイギリスに戻った。
初期の政歴(1754年-1770年) [編集]

1754年4月15日、ノースは22歳でバンベリー選挙区から下院議員に無投票で選出された[5]。
このときから1790年まで下院議員を務めた。1759年6月2日にニューカッスル公トーマス・ペラム・ホールズとチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)の連立内閣に財務次官として初入閣した。間もなく良い行政官、議員としての評判を獲得し、概して同僚にも好かれた。当初はホイッグ党員だと考えていたが、多くの同時代人にとって、ノースの考え方はトーリー党寄りであることが明白になり、議会のホイッグ党の誰とも密接な連携をくむことは無かった[6]。
1763年11月、ジョン・ウィルクスの問題に関して政府を代表して演説する者に選ばれた。ウィルクスは下院議員であり、その急進的新聞「ザ・ノース・ブリトン」で首相や国王に対して中傷的な攻撃をしたと多くの者が考えていた。ノースが提案したウィルクスを下院から追放するという動議は173票対111票で可決された。ウィルクスは決闘をした後でフランスに逃亡しており、その欠席のままで除名が決まった[7]。
1765年に権力を得たホイッグ党の有力者ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワースによって政府が動かされるようになると、ノースは閣外に去り、暫くは平議員となった。ロッキンガム侯からの再入閣提案があったが、内閣を支配している富裕なホイッグ党高官と付き合うことになるのを恐れたことが大きく、それを断った[8]。
1766年に大ピットが第二次内閣として戻ってきたときにノースは復帰した。ピット内閣で陸軍主計官に指名され、枢密院顧問になった。ピットが病気がちだったので、政府は実質上オーガスタス・フィッツロイによって運営され[9]、ノースはその最上級メンバーの一人だった。
財務大臣 [編集]
1767年12月、ノースはチャールズ・タウンゼンドの後を受けて財務大臣となった。1768年初期に国務大臣ヘンリー・シーモア・コンウェイの辞任により、ノースは下院院内総務にもなり、ピットの後継者であるグラフトン公の下で仕え続けた。
首相(1770年-1782年) [編集]



国の修繕屋(1780年)、ジェイムズ・ギルレイがノース(右下、跪いている)とその同盟者を国という鍋の無能な修繕屋として戯画化した。ジョージ3世は後方で大喜びして叫んでいる。
指名 [編集]
1770年1月28日、グラフトン公が首相を辞任したことを受けて、ノースが首相となった。その閣僚や支持者達はトーリーと呼ばれるようになったが、これは正式な党派ではなく、多くの者は以前ホイッグ党に属していた。ノースは七年戦争の後で勝利国イギリスを引き継ぎ、イギリス帝国はその頂点に達しているように見えた。諸般の事情によりその前の閣僚の多くをそのまま就かせておくことを強いられたが、ノースの考えへの同意は得られていなかった[10]。
フォークランド危機 [編集]
ノース政権は1770年の戦争寸前までいったフォークランド危機で、スペインのフォークランド諸島占領の試みを屈服させ、初期の成功を掴んだ[10]。フランスもスペインも七年戦争でイギリスが勝利した後は、イギリスが支配していると受け取られることに不満なままだった。しかし、ルイ15世はフランスが戦争できる状態ではないと考え、イギリス艦隊の強力な機動性を前にして、スペインに妥協を強いた。ルイ15世はイギリス侵略を提唱していたタカ派の宰相であるエティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズールの解任までした。
政府の権威と人気はこの事件で大きく持ち上げられた。フランスとスペインの間にうまく楔を打ち込み、イギリス海軍の力を誇示した。ただし、このことでノース卿にあるレベルの自己満足を与え、ヨーロッパ列強はイギリス植民地の事情に干渉することはないという誤った考えを植えつける事になったという批評家がいた。2年前のコルシカ危機ではイギリスの同盟相手であるコルシカ共和国をフランスが併合するの妨げられなかった前政権とは対照的になった。ノースは新たに築かれた人気を使って、第4代サンドウィッチ伯ジョン・モンタギューを初代海軍大臣に指名する機会を捉えた。
アメリカ独立戦争 [編集]
ノース政権の大半は先ずアメリカ植民地との大きくなっていく問題に、そして後にはレキシントン・コンコードの戦いに続いて1775年に勃発したアメリカ独立戦争に集中した。ノースは戦争の全体戦略をキーとなる部下であるジョージ・ジャーメインとサンドウィッチ伯爵に任せた。1778年にフランスがアメリカの反逆者に加担し、1779年にはスペインがフランスの同盟国として参戦した。さらには1780年にマイソール王国やオランダが参入した。イギリスは同盟国が一つも無いままに4大陸で地球規模の戦争をすることになった。
この難局に、イギリスの海上封鎖戦略に対抗する形で形成された武装中立同盟が加わり、バルト海からのイギリス海軍の物資供給に脅威となった。深刻な人員不足に直面したノース政権は、以前にカトリック教徒が軍務に就くことを禁じた法律を撤廃する法案を可決した。このことで反カトリック感情を急激に高まらせ、ロンドンでのゴードン暴動に繋がった。
辞任 [編集]
1782年3月27日、前年のヨークタウンでの敗北のために、イギリス議会では初めて、実際には世界でも初めて、ノースは不信任決議案によって首相を辞任せざるを得なくなったという不名誉な特徴がある。アメリカ独立戦争を終わらせるために、彼は和解案を提案した。その提案は、植民地が戦いを止めれば、すべての「耐え難き諸法」を撤回することを約束するものだった。植民地は、その望むことは独立であるとして、この提案を拒絶した(有名な話だが、ノースはこのことを聞いて「なんてことだ。すべては終わった。終わりだ!」と叫んだという)。
皮肉な事に1782年はノース卿やサンドウィッチ伯が採用した政策が大きくものを言って海軍が勝利し、戦争はイギリスに再度傾きかけた。1783年にイギリスはノースが辞めさせられたときよりもかなり有利な休戦条件を設定する事ができた。


ノースの肖像画(1753年)、油絵、ポンペオ・バトーニ画
フォックス・ノース連立政権(1783年) [編集]

1783年にノースは復活を果たした。急進派ホイッグ党首チャールズ・ジェームズ・フォックスとフォックス・ノース連立として知られるありそうもない連立を行い、ポートランド公ウィリアム・ヘンリー・カヴェンディッシュ・ベンティックを名目上の首相に据え、自らは内務大臣となった。イギリス王ジョージ3世は急進的で共和主義者のフォックスを忌み嫌い、このことを裏切りとして許さなかった。この内閣が倒れたその年の12月でノースの閣歴は終わった。この連立内閣の大きな成果の一つはアメリカ独立戦争を終わらせるパリ条約に署名したことだった。
新しく首相になったウィリアム・ピット(小ピット)は長持ちするとは考えられず、ノースは声に出してピットを批判し、再度首相に復帰できる望みを抱いていた。ピットはその後の20年間を政界に君臨し続け、ノースとフォックスを野党暮らしさせたので、ノースは憤懣が募ることになった。
晩年(1783年-1792年) [編集]

ノースは失明した1790年に下院を去り、その後直ぐに父のギルフォード伯爵を継承し、晩年を貴族院で過ごした。ロンドンで1792年に亡くなり、彼のロクストン修道院の家に近いオクスフォードシャー州ロクストンのオールセイント教会に埋葬された。息子のジョージ・ノースがバンベリーの選挙区を継承し、1792年には父の爵位も継いだ。
皮肉なことに、ノースの家ロクストン修道院は現在、アメリカのフェアリー・ディキンソン大学所有になり、改修された修道院はアメリカから来る留学生が勉強する場所となっている。
遺産 [編集]

ノース卿は今日「アメリカを失った」首相として記憶されている。
ノースカロライナ州ギルフォード郡はノース卿の父に因んで名付けられた。ギルフォード郡は1771年に創設され、今日郡内にはグリーンズボロやハイポイントの都市があり、ノースカロライナ州で3番目に人口の多い郡となっている。
エディンバラ城に展示されている18世紀のドアにはアメリカ独立戦争の間に捕まえられた囚人によって彫られた「ノード卿」と記された処刑台が見られる。
結婚と家族 [編集]

ノースは1756年にアン・スピーク(1741年-1797年)と結婚した。夫妻には次の6人の子供が生まれた。
第3代ギルフォード伯ジョージ・オーガスタス・ノース(1757年9月11日-1802年4月20日)、先ず1785年9月30日に第3代バッキンガムシャー伯の娘マリア・フランシス・メアリー・ホバート=ハンプデン(1794年4月23日に死去)と結婚し、子供ができた。次に1796年2月28日にスーザン・クーツ(1837年9月24日死去)と再婚した。
キャサリン・アンナ・ノース(1760年-1817年)
第4代ギルフォード伯フランシス・ノース(1761年-1817年)
レディ・シャーロット・ノース・リンゼー(?-1849年10月25日)、1800年4月2日に第5代バルカレス伯の息子ジョン・リンゼー中佐(1762年3月15日-1826年3月6日)と結婚した。
第5代ギルフォード伯フレデリック・ノース2世(1766年-1827年)
レディ・アン・ノース・ベイカー=ホルロイド(1783年以前-1832年1月18日)、1798年1月20日に初代シェフィールド伯ジョン・ベイカー=ホルロイドと結婚し、2人の子供が生まれた。
生誕から死までの称号 [編集]

フレデリック・ノース閣下(1732年-1752年)
ノース卿(1752年-1754年)
ノース卿、下院議員(1754年-1766年)
ライト・アナラブル、ノース卿、下院議員(1766年-1772年)
ライト・アナラブル、ノース卿、ナイト、下院議員(1772年-1790年)
ライト・アナラブル、ノース卿、ナイト、(1790年)
ライト・アナラブル、フィルフォード伯、ナイト、枢密院(1790年-1792年)
語録 [編集]

「なんてことだ!全ては終わりだ」ヨークタウン降伏の報せを聞いたとき

アメリカ合衆国下院議長

アメリカ合衆国下院議長(アメリカがっしゅうこくかいんぎちょう、英語: Speaker of the United States House of Representatives)は、アメリカ合衆国下院を主宰する役職、またはその人である。現在開会されている第112連邦議会(2011年1月 -)における下院議長は、オハイオ州第8選挙区選出の共和党員ジョン・ベイナーである。
下院議長は大統領権限継承順位について、副大統領に次ぐ第2位にあり、第3位の上院仮議長より上席にある[1][2]。このため下院議長は、大統領が万が一執務不能に陥った際、副大統領が欠けている、あるいは副大統領も揃って執務不能に陥った場合には大統領権限を継承することになる極めて重要なポストである[3]。イギリスの庶民院(下院)議長などとは異なり、アメリカの下院議長は通常自ら議事を主宰・進行することはせず、自身の所属する政党の他の議員にその任務を委託する。下院と多数派政党の代表者に関わる任務以外に、管理的および手続に関する機能も遂行し、またその選挙区の代表でもあり続ける。
目次 [非表示]
1 選出
2 歴史
3 著名な議長選挙
4 党派の役割
5 主宰職
6 その他の機能
7 関連項目
8 脚注
9 外部リンク
選出 [編集]

下院議長は連邦議会の新しい会期初日に選出される。選挙はアメリカ合衆国下院書記官によって取り仕切られ、各政党が候補者を指名する。投票の単純多数を得たものが選出され、選出後、下院議員の中で最も議員歴の長い者、下院長老 (Dean of the House) の媒介で宜誓就任する。アメリカ合衆国憲法には、下院議長が現職下院議員でなければならないという規定はないが、これまで選出された下院議長は全て現職議員であった。
現代のやり方では、下院議長は下院の多数派政党によって選ばれている。通常下院議員選挙から2、3週間後には誰が新しい下院議長になるか明らかになっている。下院議員は所属する政党の候補者に投票すると考えられている。そうしない場合は、通常所属政党の他の誰か、あるいは「現職」に投票する。他の政党の候補者に投票することは大変重大な問題として扱われる。例えば、2001年の下院議長選挙で民主党のジム・トラフィカントが共和党のデニス・ハスタートに投票したとき、民主党はトラフィカントの序列を剥奪した。
歴史 [編集]

初代下院議長はフレデリック・ミューレンバーグであり、アメリカ合衆国議会最初の4会期で連邦党員として選出された[4]。しかし、当初の下院議長は大変影響力のある役職ではなく、ヘンリー・クレイが就任(1811年-1814年、1815年-1820年、および1823年-1825年)して変わった。クレイはその多くの前任者達とは対照的に、幾つかの議論に参加し、支持する手段を成立させるために影響力を使った。例えば、米英戦争の宣戦布告やクレイの「アメリカ・システム」に関わる様々な法律がそうだった。さらには、1924年アメリカ合衆国大統領選挙でどの候補者も選挙人選挙の過半数を取れなかったとき、大統領は下院で選出されることになった。下院議長のクレイは最大多数を得ていたアンドリュー・ジャクソンの代わりにジョン・クィンシー・アダムズへの支持を表明し、それによってアダムズの当選を確実にした。1825年にクレイが議長職を引退した後、再度下院議長の権限は減退した。しかし、それと同時に下院議長選挙は激しいものになっていった。南北戦争が近付くと、幾つかの会派がそれぞれ候補者を指名し、しばしばどの候補者も過半数を獲得するのが難しくなった。例えば1855年とさらに1859年、下院議長の指名争いは落ち着くまでに2ヶ月間も続いた。下院議長の任期は大変短くなる傾向があった。例えば、1839年から1863年の間に、11人の下院議長が存在し、1期を超えて務めた者は1人だけだった。


ヘンリー・クレイはその下院議長としての影響力を駆使して好む手段の成立を確実にした。
19世紀の終わり近くなって、下院議長職は大変強力なものに変わり始めた。下院議長の権限の最も重要な源泉は議院運営委員会委員長職を兼ねたことであり、この委員会は1880年にその仕組みが作られた後は、下院の中でも最も強力な位置にある委員会となった。さらに、何人かの下院議長は所属政党の中で指導的人物となった。例えば、民主党のサミュエル・J・ランドール、ジョン・グリフィン・カーライルおよび、チャールズ・フレデリック・クリスプ、共和党ではジェイムズ・G・ブレイン、トマス・ブラケット・リードおよびジョーゼフ・ガーニー・キャノンがいた。
下院議長の権限は、共和党のトマス・ブラケット・リードの任期(1889年-1891年および1895年-1899年)の間に大きく強化された。リードはその敵対者から「リード皇帝」とも呼ばれており[5]、特に「消滅する定足数」と呼ばれる戦術に対抗することで、少数党による法案の妨害を終わらせようとした[6]。動議に関する採決を拒否することで、少数党は定足数が満たされないようにすることができ、採決結果は無効になった。しかし、リードは議場にいるが投票を拒んだ者も定足数を決定するときに勘定に入れられると宣言した。リードはこのことや他の規則を通じて、民主党が共和党の議事日程を妨害できないようにした。下院議長職は共和党のジョーゼフ・ガーニー・キャノンの任期(1903年-1911年)でその最高点に達した。キャノンは法案成立の過程を異常なくらい統制した。下院の議事日程を決定し、全委員会の委員を指名し、委員長を選択し、議院運営委員会を主宰し、またどの委員会がどの法案を審議するかを決定した。共和党の提案が下院を通過することを確実にするために、活発にその権限を使った。しかし1910年、民主党と共和党の不満分子何人かが結託し、下院議長から委員会委員を指名することや議院運営委員会委員長を含め多くの権限を奪った。この役職の失われた影響力全てではないが、その多くは15年以上後の下院議長ニコラス・ロングワースが復活させた。


ジョーゼフ・ガーニー・キャノンは、下院史上最も強力な下院議長だと考えられることが多い
20世紀半ば、歴史上でも最大級の影響力を持った下院議長は民主党のサム・レイバーンだった[7]。レイバーンは歴史の中でも最も長期間下院議長職にあった者であり、1940年-1947年、1949年-1953年、および1955年-1961年を務めた。多くの法案の形成に貢献し、下院委員会には背後で静かに働きかけた。フランクリン・ルーズベルトとハリー・S・トルーマン各大統領が提唱する幾つかの国内政策や海外援助計画成立を確実にすることにも貢献した。レイバーンの後継者、民主党のジョン・ウィリアム・マコーマック(1962年-1971年)は幾分影響力の薄い下院議長だったが、これは民主党の若手議員の間にあった不満が特別な原因になった。1970年代半ば、民主党のカール・アルバートの下で下院議長の権限は再び大きくなった。議院運営委員会は1910年の改革以来そうであった半独立的委員会であることを止めた。その代わりに、再度党指導層の武器になった。さらに1975年、下院議長は議院運営委員会の委員過半数を指名する権限を認められた。一方、委員長の権限は抑えられ、下院議長の相対的影響力を増すことになった。
アルバートの後継者、民主党のティップ・オニールはロナルド・レーガン大統領の政策に公然と反対したことで著名な下院議長となった。オニールは中断なく下院議長を務めた期間(1977年-1987年)では最長となった。オニールはレーガンの国内計画や防衛費に異議を唱えた。共和党員は1980年と1982年の選挙運動でオニールをその標的にした。それでも民主党はどちらの選挙も多数派を維持できた。党の役割は1994年に逆になった。共和党は40年間少数派に甘んじた後、下院多数派を奪い返した。共和党の下院議長ニュート・ギングリッチは、常にビル・クリントン大統領と対決した。特にギングリッチの掲げる「アメリカとの契約」が争いの元だった。ギングリッチは共和党が1998年の議会選挙で敗北し、わずかに多数派を守った時に失脚し、その後継者デニス・ハスタートはかなり目立たない役割を演じた。2006年中間選挙で民主党が下院の多数派となった。2007年1月4日に招集された第110議会でナンシー・ペロシが下院議長になり、初めての女性議長となった。
著名な議長選挙 [編集]

歴史を振り返ると、1839年の議長選挙のように幾つかの議論の多い下院議長選挙が行われた。1839年の場合、議会は12月2日に招集されたが、「ブロードシール(州章)戦争」と呼ばれるニュージャージー州での選挙論争のために12月14日まで下院議長選挙を始められなかった。2つの競争関係にある議員団、1つはホイッグ党でもう1つは民主党がニュージャージー州政府の異なる部門から選出されたと証明されていた。問題は、論争の結果がホイッグ党と民主党のどちらが多数派を握るかを決めることになるために複雑だった。どちらの党も敵対する党の代表団が出席している時に下院議長の選挙を認めようとはしなかった。最終的に選挙からどちらの代表団も外すことになり、下院議長は12月17日に選出された。
また、1855年の第34期議会ではさらに長い戦いが起こった。新しい共和党はまだ十分に形成されておらず、大半が元ホイッグ党員のかなりの数の政治家が反対党のラベルで議員職を求め出馬した。このラベルは、ホイッグという名前では信用が無くなって放棄されているが、元ホイッグ党員は民主党には反対しているということを知らせる必要があったために使われたと見られている。選挙の後、実際に反対党が下院の最大党となり、議員数234に対し、反対党100、民主党83、およびアメリカ党(ノウ・ナッシング党)51となった。ノウ・ナッシング党のために、共和党も民主党もその候補者が過半数を得られなかった。妥協のために共和党はノウ・ナッシング党候補者ナサニエル・プレンティス・バンクスを指名した。これはアメリカの議会両院で初めて連衡政府ができた例となった。下院は第36期、第37期および第38期でも同じような板挟みに陥った。これらの会期で選ばれた3人の下院議長は、皮肉なことに以前のブロードシール戦争の議論でホイッグ党の代表団を証明したニュージャージー州知事のウィリアム・ペニントン、次がガルーシャ・A・グロウ、最後はユリシーズ・グラント政権で副大統領になったスカイラー・コルファクスだった。
下院の議長選挙で1回では決まらなかったものは第65期と第72期が最後となった。1917年、3人の進歩党とその他の党の単一議員がそれぞれの候補者に投票したために、共和党と民主党のどちらの候補者も過半票を得られなかった。共和党は下院で最大党派だったが進歩党の支持のためにジェイムズ・クラークが下院議長に留まった。1931年、共和党と民主党の議員数はどちらも217人となり、ミネソタ農夫労働者党の1人がどちらに投票するかを決める者となった。農夫労働者党は最終的に民主党候補者ジョン・ナンス・ガーナーに投票し、ナンスは後にフランクリン・ルーズベルト政権の副大統領になった。
最近の下院議長選出で注目すべきは1999年のものだった。1998年の総選挙で共和党の成績が揮わなかったことを広く責められたニュート・ギングリッチ議長は再選を求めず、下院からの引退を宣言した。その予想された後継者は歳出委員会委員長のボブ・リビングストンであり、共和党大会でも反対無く候補指名を受けた。しかし、リビングストンはビル・クリントンのセクハラ裁判でその偽証を公に批判していた者だったが、自身が不倫に関わっていたことが暴露された後で突然下院議員を辞職した。その結果、次席のデニス・ハスタートが下院議長に選ばれて務めることになった。


ナンシー・ペロシ
2006年11月16日、当時下院民主党院内総務だったナンシー・ペロシが次の下院議長になるべく民主党から選ばれた[8]。第110期議会は2007年1月4日に招集され、ペロシは共和党候補者ジョン・ベイナーと争い、233対202の票決で第60代下院議長に選出された。ペロシは下院議長に選ばれた最初の女性であり、当然ながらアメリカ合衆国大統領の承継順位第2位にある。
党派の役割 [編集]

アメリカ合衆国憲法には下院議長の政治的役割を規定していない。しかしこの役職は歴史の中で成長してくるにつれて、はっきりと党派的役割と解釈され、綿密に非党派的であることが目されるイギリス庶民院議長とは大変異なっている。アメリカ合衆国の下院議長は伝統的に下院多数党の頭であり、多数党院内総務の役割を超えている。しかし、下院議長は通常議事に参加しない(参加する権利はある)し、議場で投票することは滅多にない。
下院議長は多数党が支持する法案を下院で成立させることを保証する義務がある。この目標を達成するために、下院議長はいつ各法案を議題にするかを決定する権限を使っても良い。多数党の下院運営委員会も宰領する。下院議長は下院多数党の首長として機能するが、上院の臨時議長は必ずしもそうはならず、その役職は主に儀礼と名誉のためのものである。
下院議長と大統領が同じ党に属するとき、下院議長は通常多数党指導者としてそれほど顕著な役割を果たさない。例えば、デニス・ハスタートは同じ共和党のジョージ・W・ブッシュ大統領の任期中、重要性の大変低い役割となった。一方下院議長と大統領が対立する政党に属するとき、下院議長の公的役割と影響力は増大する。下院議長は反対党の最高位にある者であり、通常大統領の議題にとって主要な公的対立者である。最近の例としてロナルド・レーガン大統領の国内および防衛政策についてうるさい反対者だったティップ・オニール、国内政策の統制についてビル・クリントンと激しく争ったニュート・ギングリッチ、および国内政策やイラク戦争でジョージ・W・ブッシュと衝突したナンシー・ペロシが挙げられる。
主宰職 [編集]

下院議長は下院を主宰する役職者として様々な権限があるが、通常は多数党の他の議員にそれらを委託する。下院議長は下院議員の誰かを臨時議長に指名し下院を主宰させることができる。重要な議論があるとき、臨時議長は宰領の能力故に選ばれた多数党の古参議員となるのが通常である。その他の場合、より若手の議員が宰領を任されて下院の規則や手続に関する経験を積むようにされている。下院議長は特別の目的で臨時議長を指名することもできる。例えば、長い休暇の間には、ワシントンD.C.に近い選挙区選出の議員が成立した法案に署名するために臨時議長に指名される。
下院の議場では主宰する役職者は何時も「ミスター・スピーカー」あるいは「マダム・スピーカー」と呼ばれ、これは下院議長が自ら主宰していないときでも同じである。下院が全院委員会に分かれたとき、下院議長は1人の議員が委員会の委員長として主宰するよう指名し、その委員長は「ミスター・チェアマン」あるいは「マダム・チェアマン」と呼ばれる。委員が発言する前に委員長は主宰する役職者の確認を求めなければならない。主宰する役職者はその望む委員の発言を求めることができ、それによって議論の流れを制御できる。主宰する役職者はあらゆる議事進行上の問題も規定するが、そのような規定は全下院に要請しても良い(ただし、この要請は何時も党路線を決める投票に提出される)。下院議長は下院における作法を維持する責任があり、守衛官に規則を強制させる命令を出しても良い。
下院議長の権限と義務は議場を主宰すること以外にも及んでいる。特に下院議長は委員会の進行に強い影響力を持っている。強力な議院運営委員会委員13人のうち9人を選出し、多数党大会の承認を得ることになっている(残り4人は少数党指導層が選ぶ)。さらに、特別委員会や協議委員会の全委員を指名している。また法案が提出されたとき、どの委員会でそれを検討するかを決定する。下院議長は下院議員として議論と投票に参加できる資格がある。しかし、慣習的には特別な事情が或る場合を除きそれは行わない。通常その1票が決着を付けることになるとき、および非常に重要な問題(憲法修正など)にのみ実行する。
その他の機能 [編集]

議会の両院合同会議や合同集会が下院議場で開催されるので、下院議長は、アメリカ合衆国憲法修正第12条で規定される上院議長が選挙人選挙票を開票し大統領当選者を宣言するために招集される合同会議を主宰する場合を除き、合同会議や集会を全て主宰する(修正第12条では、「上院議長は上下両院の前で選挙人票の証明書全てを開票する」と明確に規定している)。
下院議長はさらに、下院の役職者、すなわち下院書記官、守衛官、最高総務責任者および下院付き牧師を監督する責任がある。牧師を除きこれら役職者を解任できる。下院議長は下院歴史官と法務顧問を指名し、また下院多数党院内総務および少数党院内総務と共に下院監察長官を指名する。
下院議長は、1947年の大統領承継法に基づき、アメリカ合衆国副大統領に次いでアメリカ合衆国大統領の継承順位第2位にある。継承順位の次は上院臨時議長および連邦政府長官達が続く。しかし、学者によってはこの継承法の規定が違憲であると言う者がいる[9]。
今日まで大統領継承法の行使は一度も必要にならなかった。下院議長で大統領になった者はいない。この法の行使は1973年にスピロ・アグニュー副大統領が辞任した時に、必要となる寸前まで行った。当時の多くの者は、リチャード・ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任し、下院議長カール・アルバートが継承することになると考えた。しかし、ニクソンは辞任する前に、アメリカ合衆国憲法修正第25条に従い、ジェラルド・フォードを副大統領に指名した。それでもアメリカ合衆国政府は下院議長の継承順位が重大であると見なしており、例えば、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の直ぐ後以来、下院議長は選挙区への行き帰りなど移動するときに軍のジェット機を使っている。憲法修正第25条に従い、大統領が職務遂行不能あるいは職務再開の場合に申告しなければならない役職者の1人が下院議長である。最後に下院議長は選出された選挙区有権者の代表であり続ける。しかし、上述したように下院議長は通常投票や議論に参加しない。

アメリカ合衆国下院

アメリカ合衆国下院(アメリカがっしゅうこくかいん、英:United States House of Representatives、略称:The House[1])は、アメリカ合衆国上院とともにアメリカ合衆国議会を構成する議院。議席数は435で、各州に対して人口比率に応じて議席配分される。
正式名称の意訳は合衆国代議院[2]だが、日本語では下院の呼称が通常用いられる[3]。解散はない。
目次 [非表示]
1 語源
2 歴史
3 構成
4 権能
5 役職
6 関連項目
7 脚注
8 外部リンク
語源 [編集]

「上院 (upper house)」「下院 (lower house)」という言葉は、アメリカの首都がフィラデルフィアであった頃、議会が使用していた2階建ての公会堂(現在の独立記念館、当時の大きめな家屋と変わらないほどの小振りな建物)で、議員数の多い代議院 (House of Representatives) がその1階部分 (lower house) を、少ない元老院 (Senate) が2階部分 (upper house) を使用したことからこう呼ばれ始めたといわれる。
歴史 [編集]

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構成 [編集]

下院議員(representative)の任期は2年で、選挙のたびに全員が改選される。下院選挙の2回に1回は大統領選挙と一致する。大統領選挙と一致しない年に行われる下院議員選挙および上院議員選挙(議席の3分の1ずつ改選)を総称して中間選挙と呼ぶ。解散制度をもたない合衆国立法府においては、この中間選挙は、大統領の任期半ばに連邦の政治についての有権者の意思を問う重要な意義を持つ。
下院の435議席は、10年に1度の国勢調査によって決定される人口に基づき50州に配分される。アラスカ・ノースダコタ・バーモント・ワイオミングの各州の州選出定員が各1名で最少、カリフォルニア州が最多で州選出定員53名となっている。選挙制度は単純小選挙区制で、選挙区割りは州に任されており、州立法による場合と独立した組織によって決定される場合がある。「代表なくして課税なし」の原則より、準州など州とみなされない合衆国領土についても、委員会のみに参加するオブザーバーの議員が数人いる。
選挙権は18歳以上。被選挙権は25歳以上で7年以上合衆国市民であり、選挙時に選出州の住民であることが求められる。
連邦議会議員は、憲法により不逮捕特権や免責特権が保証されているが、他の官職につくことが禁止されている。
権能 [編集]

予算法案の先議権はあるが、条約の批准、高級官僚や裁判官の指名に対する承認権はないなどの点で上院に比べて権限は劣る。ただ、議会の最も重要な立法権は上院と同等の権限である。大統領選挙において選挙人を過半数獲得した候補がいない場合は下院が大統領を選出する権限を持つ。大統領・副大統領その他の裁判官を含む連邦公務員に対する弾劾裁判では、下院の単純過半数の賛成に基づく訴追を受けて上院が裁判し、上院2/3多数の賛成により弾劾対象者を免職しうる。大統領に解散権はなく、解散はない。
役職 [編集]

下院議長 (House Speaker、正式名:Speaker of the United States House of Representatives)
党籍を有したまま活動するのが通例。また、上院や日本の国会などの議長と異なり、自らの判断により議事整理権を行使することが多い。
下院議長は、副大統領に次いで大統領権限継承順位が第2位の要職。正副大統領を共に欠いた場合には下院議員を辞職した上で大統領に昇格し、正副大統領が共に一時的な執務不能となった場合には、下院議員のまま大統領権限を臨時代行する。
下院院内総務 (House Majority/Minority Leader、正式名:Majority/Minority Leader of the United States House of Representatives)